「みずとこめに」 私感

松本 池上邸の米蔵にて、5/28.29、「みずとこめに」が無事終了した。
当初、米蔵内ではインスタレーションのみ、庭を使って珈琲等の提供をと考えていたものの、両日とも天候に恵まれず、そのほとんどを蔵内で行うこととなった。
しかしそもそも、みずもこめも雨が降らなければ私たちにもたらされることはないもので、天候に恵まれずというのは、いかにも罰当たりな言い方かもしれない。
蔵内の明かりは、扉や窓を少し開けたところから入ってくる弱い陽の光と、珈琲提供のためにひとつの電球、所々に置かれた蝋燭に限られた。
外が晴れていればそのコントラストはより大きなものになったであろうが、曇りや雨でも、外から蔵に入ってくると、目が慣れるまで意外に時間を要する。
入り口のところで戸惑う様子の方が多くいらした。
動作はゆっくりになるし、なぜか小声になる。入っていいのですか?というようなことを何度も聞かれた。中にはなぜこんなに暗くしているのかと苛立っている方もいらしたけれど、この暗さは大切な要素だった。
外から遮断された暗いところに入るのは怖いのだ。
しかし、ここにはそれ以外に人を驚かしたり怖がらせたりする要素は何もない。ただ静かに器が並べられ、みずとこめが盛られて、蝋燭が灯されているだけだ。あとは珈琲のよい香りが漂っているだけ。
器は家に持って帰れば日常にすぐに使える。みずやこめを初めて見るという人はほとんどいないだろう。もちろん、1日に1回は夜がきて、私たちは暗闇に包まれる。
そんな当たり前の集まりに、なぜ、何か異なるものを感じるのだろう。何が違うのか。
この蔵の中にあるものをバラバラにして生活に散りばめたなら、難なく馴染むだろう。
それがある形である組み合わせである空間に設えられると、何か異質なものになる。
この異なるものは設えた者でさえ、必ずどこかコントロールし切れないものであろう。
だから自然なのだ。
今日も夜はやってくる。
あらゆることが明るさの前に提出されようとしている。
しかし、闇がなければ明るさもなく、明るさばかりが増長すれば、闇もその分深くなる。
当たり前を大事にして、異質なものを忘れずに居たい。
―山本千夏(Gallery Yamamoto)

personal products

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その掛け時計には文字盤がない。丸いアルミニウムの盤にほっそりとした針。どちらも素っ気ない銀色。元に戻したのか、先に進めたのか、手を加えたというより引いたといったらよいだろうか。必要であると思っていた幾つもの要素は、実は不要であったと知らされる。振り子の音がここちよい。目に耳に時を刻む。
元は1960年代から80年代にかけてつくられた機械式柱時計であったらしい。ゼンマイ式のそれは、クオーツ式にとって代わられるまで、日本の一般家庭で当たり前に使われていた。そして今、アンティークとしての価値が認められることはほとんどない。しかしその軽妙な音を伴って動く機械の精度の高さ、美しさに、猿山修は惹かれた。その人が心動かされ、時計は再び動き始め、今度は私たちが動かされることになる。
猿山修のpersonal productsが魅力的なのは、それが文字通り‘私的なもの’であるからではないだろうか。その人が実際に人に出会い、ものに出会い、そこに何かを見て、何かをつくること。親密なやり取り。その答え。その背景にはその人の暮らしが、偏っているといっても過言ではないその人の好みが、色濃く反映されている。私的であることを徹底することは、普遍に通ずる数少ない方法のひとつであることをその人は知っている。
その時計は淡い一色に塗られた箱に入れられ、ガラスの板で覆われている。時間は過去から未来へ一定方向に流れているようであるが、この箱の中には昔と今が平気な顔で共存している。    -山本 千夏
「私的なプロダクツ」展
会期 2011年1月31日(月)より2月5日(土)
会期中無休 12時より19時(最終日は17時まで)
主催・会場「ギャルリーワッツ」
東京都港区南青山5-4-44ラポール南青山103
03-3499-2662
http://www.wa2.jp
https://guillemets.net/saruyama/events.html
協力/株式会社東屋、株式会社東青山、Gallery Yamamoto