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「月光値千金」展 – "GEKKOU- ATAI- SENKIN" exhibition/ antiques

今週末から東京青山にて下記の展覧会が始まります。
「月光値千金」展
今年も大吉さんとさる山さんが、秋の夜長を楽しむための酒の器、道具をならべます。
2011年9月17日(土)より19日(月・祝)
12:00- 19:00(初日のみ17時からの営業とさせて頂きます。)
初日の17日(土)のみ、17時から20時までの宵の口、ささやかではございますが、展示している器でお酒を振る舞います。
よろしければ猪口っと……だけでもお立ち寄りくださいませ。お待ちしております。
主催・会場
〒107-0062
東京都港区南青山6-1-6 パレス青山1階
03-3400-5525
http://www.higashiaoyama.jp/
Information from ‘SARUYAMA’
“GEKKOU- ATAI- SENKIN”
exhibition/ antiques
Sep. 17 (Sat)- 19(Mon), 2011
0 pm- 7 pm
at
‘ higashiaoyama ‘
5-4-44-103 Minamiaoyama
81(0)3-3400-5525
http://www.higashiaoyama.jp/
Please come see.

良薬口に苦し

煙草展というと、苦い顔をされることがある。
禁煙全盛の世の中だから仕方ない。
私自身、煙草をテーマに展覧会を企画しているが、特に喫煙推進というわけではないし、煙草も吸わない。
ただ、世の中がひとつの答えに染まってしまうことには何か嫌な感じがする。
古くは薬としても用いられていた煙草が、今は百害あって一利なしと言われるようになり、本当にそうなのかどうか、議論の余地はほとんどないように見える。
灰色のものは排除して世の中が無菌状態になれば、皆幸せになれるのだろうか。
しかし、副題を -余計なもの、あるいは必需品- としたのは、煙草の賛否がこの展覧会のテーマではないからである。
そのことは個人がそれぞれ考えて選択すればよいと思う。
そこでなぜ煙草なのか。
煙草道具によく見られる無駄なこだわりや美意識のようなものに、どうも惹かれるようである。
機能に限定されない魅力。広い意味で装飾的なもの。
そしてその二面性。
毒、あるいは薬 というのは、あらゆる美しいもの、魅力的なものが内包する要素ではないだろうか。
毒のないものは薬にもならない。
そもそもこの展覧会を企画したのは、煙草に代表される余計なものとされがちなものが、想像以上に大事なのではないかと思ったからである。
必要最低限だけで生きるのは、どうやら難しそうだとつくづく思う。
ここでいう必要最低限とは、文字通り最低限命をつなぐためのものという意味においてである。
違う言い方をすれば、なくても生きていけるものの必要性に思い至ったということである。
これから先、何度もそう再認識すると思う。
例えば、指輪はどうだろう。
ただの装飾品とも言えるし、それがお守りのような存在になり、肌身離さず身に着けるということもある。
ものがあるひとにとってはただのものではなくなる。
案外そういうものに助けられて生きている。
ご出品頂く方々には、煙草の持つ二面性というところに重点を置き、煙草道具としても使え、また同時に煙草のない日常生活にも使えるようなもの、もしくは煙草道具でなくても、もの自体が用途や意味において二面性を持っているものを制作、出品頂く予定である。
今回出品されるものそれぞれが、だれかにとっての必需品になったら嬉しいと思う。
- Gallery Yamamoto 山本 千夏
「 煙草 」 展 -余計なもの、あるいは必需品-
濱中史朗 竹俣勇壱 金森正起 omoto 猿山修
・Gallery Yamamoto
2011.9.10(土)-19(月・祝) 11:00-17:00 会期中無休
・さる山
2011.9.23(金・祝)-25(日) 13:00-18:00 会期中無休
*内容は会場により異なる場合がありますので、ご了承下さい。

「みずとこめに」 私感

松本 池上邸の米蔵にて、5/28.29、「みずとこめに」が無事終了した。
当初、米蔵内ではインスタレーションのみ、庭を使って珈琲等の提供をと考えていたものの、両日とも天候に恵まれず、そのほとんどを蔵内で行うこととなった。
しかしそもそも、みずもこめも雨が降らなければ私たちにもたらされることはないもので、天候に恵まれずというのは、いかにも罰当たりな言い方かもしれない。
蔵内の明かりは、扉や窓を少し開けたところから入ってくる弱い陽の光と、珈琲提供のためにひとつの電球、所々に置かれた蝋燭に限られた。
外が晴れていればそのコントラストはより大きなものになったであろうが、曇りや雨でも、外から蔵に入ってくると、目が慣れるまで意外に時間を要する。
入り口のところで戸惑う様子の方が多くいらした。
動作はゆっくりになるし、なぜか小声になる。入っていいのですか?というようなことを何度も聞かれた。中にはなぜこんなに暗くしているのかと苛立っている方もいらしたけれど、この暗さは大切な要素だった。
外から遮断された暗いところに入るのは怖いのだ。
しかし、ここにはそれ以外に人を驚かしたり怖がらせたりする要素は何もない。ただ静かに器が並べられ、みずとこめが盛られて、蝋燭が灯されているだけだ。あとは珈琲のよい香りが漂っているだけ。
器は家に持って帰れば日常にすぐに使える。みずやこめを初めて見るという人はほとんどいないだろう。もちろん、1日に1回は夜がきて、私たちは暗闇に包まれる。
そんな当たり前の集まりに、なぜ、何か異なるものを感じるのだろう。何が違うのか。
この蔵の中にあるものをバラバラにして生活に散りばめたなら、難なく馴染むだろう。
それがある形である組み合わせである空間に設えられると、何か異質なものになる。
この異なるものは設えた者でさえ、必ずどこかコントロールし切れないものであろう。
だから自然なのだ。
今日も夜はやってくる。
あらゆることが明るさの前に提出されようとしている。
しかし、闇がなければ明るさもなく、明るさばかりが増長すれば、闇もその分深くなる。
当たり前を大事にして、異質なものを忘れずに居たい。
―山本千夏(Gallery Yamamoto)